ライフストーリー

先日ライフストーリーというものを作成して頂きました。自分の振り返りとして、お話したのですがなんだかスッキリした気分です^^
お読みいただけたら幸いです。


【岡田聖子さんのライフ・ストーリー】

苦手はシェアをすればいい

彼女は小学生の頃から、「死ぬときはエジプト」と決めていたのだと言う。

「小学校があった場所が、もともと貝塚で、
遺跡とか化石が出た場所なんです。
あと、母親と祖父が歴史好きやったんですよ。その影響が大きいんだと思うんですけど」

お母さんは娘に、空想を促すのが好きだった。「紫式部って実のところはどんな人だったんだろう?」そんなことを問いかけられると、少女の想像力はどこまでも広がっていく。祖父は祖父で、坂本龍馬が大好きで、
息子には「出世したいなら江戸へのぼれ!」と発破をかけていたのだという。

「歴史好きはその後も続きましたね。
学校で得意だった教科も社会科やったし、
大学も、外国の文化が学べるところを選びました。今もそれは変わらないです。
ピラミッドの前で死にたいですね(笑)」

空想とか想像とか、限りを知らない遊びのよろこびを、幼い頃に知ってしまったんですねと告げると、「貧乏やったんでね」と聖子さんは笑う。

「両親は自営業なんですけど、その仕事を始めたばかりの頃、うちはとても貧乏やったんです。父も母も忙しかったけど、その間、
隣のおばちゃんとか、近所の人たちが、みんなで助けてくれたんですよね。だから、いつか地域に恩返しがしたいと、ずっと思っていたんです」

彼女は現在、三重県鈴鹿市で、
「shining」というNPO法人を運営している。
主たる活動は、「りんごの家~鈴鹿子ども食堂~」。共働き家庭の子どもたちや、地域の高齢者、地域とのつながりを模索する大人たちを集め、みんなでごはんを作り、みんなで食べる、そんな居場所作りだ。

「うちの母親が、よく言っていたんです。子育ては、周りに助けてもらえば、そんなに苦しいものじゃないよって。だから子ども食堂も、親御さんにとって、そういう場所であれたらいいなあと。親にだって、少し子どもから離れて過ごす時間が、あってもいいんじゃないかと思うんですよ」

聖子さんの語り口は、とてもさっぱりとしている。「子どものために!」とか「お母さんに救いを!」的な、善意の押しつけ臭が少しもないのだ。

「子どもがいても、子どもが苦手な親も、いっぱいおるやろうと思うんですね。私自身、4歳の子どもがいますけど、じゃあ子ども全般が大好きなのかと聞かれると、『いや、そこまでは……』っていう感じなので(笑)」

それでも。それでも、子どもがいる人生は豊かだと、彼女はきっぱりと断言する。

「それやったら、親同士で、苦手な部分をシェアしあえたらいいと思うんですね。子育てって、『しなきゃいけないこと』だとは思わないんです。ほっといても、勝手に大きくなるわ!っていう感じ(笑)。あまりこまごまと手を出しても、自分で考えない子になっちゃうと思うから」

子どもも自分も、別の人間。
あなたに本当にやりたいことがあるなら応援するし、私だって、やりたいことをやるからねと、息子さんに宣言済みなのだそうだ。

「ひとりで自分のことができるようになるまでは、そばにいるけど、そこから先、私が海外を放浪し始めても、探さないでおくれって言ってあります(笑)」

息子さんは、「じゃあ僕も一緒に行く」と、
言ってくれているらしい。今のところは。

「それならそれで、全然アリです。
その場所が気に入ったらそこにいればいいし、私は次の場所へ行って、またどこかで合流したり」

夢中になれることは、人間には絶対ひとつはある。それを探すのは、自分自身の役目だ。
そんな母親の背中を、いつの日か、大人になった息子さんは、どんなふうに思い返すのだろう。

逃げることは、負けることは中学時代は、バレーボールに打ち込んだという。

「とっても先輩が怖くって。いつ辞めてやろうか、って思いながら3年間在籍しました(笑)。辞めたら、逃げとるみたいで、
それが悔しかったんですね」

好きか嫌いか、いいか悪いか、行きたいか行きたくないか。ありとあらゆるボーダーが、とてもクリアな人である。

「負けん気は、昔から強かった気がします。
父親が亭主関白で、職人気質で、めちゃめちゃ怖かったんですよ。父親から逃げることは、負けることや。みたいな意識がずっとありましたね。こんな父親から逃げ出さん母親はすごいな!って思ってました」

少し強めの言葉でも、聖子さんはけろりと平熱モードで言う。この感じは何なんだろう、と聞きながら思う。

「高校の時は居酒屋バイトが楽しかったですね。いろんな人が来るのが楽しかった。
『こんな人もおるんやー』みたいな(笑)。
人間観察は好きやったけど、でも、じゃあ人間が好きなのかって言われたら、そこは別に、どっちでもいいかなーって思う」

ほら。自分にとって大事なことと、そうでないことの、境界線がくっきりしている。
その理由を問うと、あっけらかんと彼女は答える。

「両手に病気があるんですよ。
進行性の難しい病気で、骨が壊死していくんです。痛みがひどくなったり、指が曲がらなくなったり、いろんな症状が出てくるんですよね。右手は箸も持てなくなったので、手術をしたんですけど、いずれは左手も、手術せないかんって言われて」

そこでの聖子さんのモチベーションが鮮やかだ。

「スキーもダメ、スノボもダメ、テニスもバドミントンもダメって、やったらいかんことをいーーっぱい言われたんやけど、我慢に我慢を重ねて3年後に手術するなら、好きなことを目一杯やって、1ヶ月後に手術する方がいいなあって」

彼女が、歴史好きであることを思い出す。
どんなに栄華を誇った名将も、いずれ敗れて散っていく。世の中ってままならないなあ、ということを思い知る、それが「歴史を学ぶ」という営みだ。

「だから、自分が思う人生を歩みたい。悔いのない人生を歩みたいんですよね」

彼女にそんな思いを深く植え付けた経験が、
若い頃にひとつ、あったのだという。

どんな生き方をしてもいいのだ

20代の時、タイの孤児院で働いていたんですよ、と聞かされる。その唐突さに驚く気持ちと、彼女ならありえなくない、と思う気持ちが両方顔を出す。

「タイに行く前に勤めていた会社が倒産したんですよ。どうせ暇になるんやったら、
ずっと行きたかったアユタヤ遺跡を観に行こうと思って」

長く滞在するぞと、決めて行ったのではないという。行ってみたら楽しかったから、そのまま、居ついた。そんなノリ。そんな軽やかさ。

「親には『30歳までは好きなことをしなさい』って、言われながら育ったんですね。
だから『ちょっとタイ行ってくるわー』って、ほんとに、かるーい感じで」

帰る日は特に決めずに、タイへ行ってみたら、言葉がまるで通じない。

「だから『日本語を教えるのでタイ語を教えてください』
って、掲示板か何かに載せたんですよね。
そしたら、5ヶ国語もしゃべれるタイ人の女の子が、名乗りを上げてくれて」

孤児院でのアルバイトは、彼女が紹介してくれたという。
勉強にもなるし、ごはんも食べさせてもらえるし、何の迷いもなく飛び込んだ。
1日500円ぐらいで過ごせてしまう上に、アルバイトも得た彼女は、タイで自由度を増していく。

「そこからの日々が、本当に楽しかったんですよ。向こうに住んでいる日本人ともたくさん出会えたし、タイ式ヨガも、タイ式マッサージも習いに行ったし。あと、フルーツ・カービングとか、タイでしかできんことばかりをしまくりましたね。
さらにラオスとか、あちこち旅をして回って」

けれどその女の子が、2004年のスマトラ沖地震で、
音信不通になってしまう。

「彼女は貧しい地方の出で、自分みたいに貧しい子たちに、
ちゃんとした教育を受けさせてあげられる何かを、作りたいってずっと言っていたんですよ。いつか、タイと日本の子どもたちが、
行き来できるような機会や場所を、一緒に作ろうねって約束していて」

彼女との日々で、聖子さんは、
自分の生きてきた世界の狭さを痛感したという。
日本に帰ったらどうやって就職しよう、
とか考えてる自分がとてもちっぽけに思えたと。

「彼女のおかげで、どんな生き方をしてもいいんだ、って思えるようになったかなあ。
日本という居場所にとらわれんでも、自由に生きたらええやん!って」

そう、「自由」。
終始、聖子さんの言葉からあふれ出ていたものはそれだ。
息子さんとの未来予想図しかり、
遺跡を見に行った旅行先で働いちゃうという決断しかり。

「ずっとタイにいるつもりやったんですけど、ある時、『タイの子どもたちも大変だけど、日本の子どもたちも大変になってきてるんだよ』
って聞かされたのと、祖母の病気もあって、帰国したんです。

胸にあったのは、自分が幼い頃、地域に助けられながら育った日々だ。

「恵まれていない子どもを助けたい、というよりも、自分の地元が、子どもたちにとって住みやすい、『自分が生まれ育った場所』であってほしいというのが、一番の願いですね」

聖子さんは、みんなの「ふるさと」を作ろうとしている。

「だから『shining』を継続していくことが、
今の一番の目標ですね。大切な仲間にもであえた。

私たち一般市民のリアルな声を、行政やお偉いさんに届けて、住みやすい地域にしたい。
私にとって、この活動は「仕事」ではないんですよ。別途、ケアマネージャーの仕事もしているんですけど、『ライフワーク』と『ライスワーク』を分けている感じなんです」

自分を幸せにするための取扱説明書を、
彼女はいつだって持っている。

「でも、計画を立てるのはすごく下手ですよ(笑)。
子どもの保育園バッグとかも、型を取ると、うまく縫えないんです。目分量でやると、上手にいくんですよね」
つまり、聖子さん自身が「物差し」なのである。

「60歳になったら絶対にやりたいことを決めてます。ハンモックカフェをね、作りたいんですよ。ゆらゆら、気持ちよさそうでしょ」
訪れる人それぞれが、それぞれの呼吸で休める場所。
とても聖子さんらしいと思う。

「あと、いつかどこかで本格的に、遺跡を掘りたい!
吉村作治さんに会いたいんですよね。

早稲田大学の教授でいらっしゃるんですよね。

聴講に行こうかな!とか、いろいろ考えるんですよ」

出会えば出会うほど、生きれば生きるほど、聖子さんの夢はどこまでも広がる。
(2017/07/13)